手しごとは未来への祈りと出会いのかけがえのなさの結晶。刺しゅうの時間と場を通じて人生の豊かさを広げたい
東京・目白にある「K.Inoue刺繍教室」。子育て世代を中心に、子どもさんから高齢の方まで、幅広い層に人気の教室です。教室の運営を担い、刺しゅうの魅力を伝えているのが、井上貴代美さん。それぞれの人の“思い”に寄り添って、刺しゅうを通じて表現することの喜びが重なり合い膨らんでいくような場を創りたい――そんな願いを胸に活動している井上さんのこれまで、これからへの思いなどを聞きました。
幼い頃、商店街にあった「手芸屋さん」。気軽に教えあえる場の思い出が活動の原点
刺しゅうに魅了されたきっかけはどんなことですか?
お知り合いの方が集まるサークル活動の延長のようなところから始まり、ご縁が重なって東京・目白に本格的に刺しゅう教室を開いたのは、2017年です。日本手工芸作家連合会から助教授の認定もいただいていますが、刺しゅうや手芸の先生を目指していたわけでありません。中学・高校では器械体操に夢中になり、趣味は宝塚やミュージカル、バレエ鑑賞。テーマパークでダンサーのアルバイトをしたり、どちらかといえば、アクティブなタイプでした。でも、幼い頃を思い返してみると、今の活動につながる「原風景」のようなものがあります。
中学校くらいまでは、折り紙をしたりお手玉を作ったりして遊ぶのが好きで、お友だちや先輩の贈り物にマスコットを作ったり、針や糸をもつ習慣があった私にとって、身近で大好きな場所がありました。それは、その当時、街の商店街にあった「手芸屋さん」「毛糸屋さん」。材料を売っているだけじゃなくて、わからないことがあれば、お店の方が気軽に教えてくださったり、店の奥でご近所の方が集まって一緒に手しごとをしていたり・・・・・・今では、ほとんどみかけなくなってしまった、暮らしのすぐそばにある「創る」「教えあえる」場でした。意識はしていませんでしたが、そんな場への郷愁が、私の活動の原動力のひとつになってくれたのかもしれません。
手しごとの中でも刺しゅうを本格的に始めるようになったのは、結婚して娘が生まれ、洋服や幼稚園用の用品を手づくりするようになってからです。教本を買って図を見ながら刺しゅうに挑戦したのですが、なかなか思い通りにいかなかったんです。誰かに教えてもらえたら・・・・・・と思っていたところ、ご縁があって二人の素晴らしい先生に出会いました。1人はギャザーを寄せながら模様を施していくスモッキング刺しゅうの先生。先生がやってらっしゃっているのを直接見たり、私の手元を実際に見ていただいて教えてもらうと、「あの教本の図って、このことを言っていたんだ!」と目の前が明るくなるような感覚を味わったんです。直接教えていただいたことで、ようやく独習するためのスタートラインに立てたという感じで、対面で「基本」を学ぶことの大切さを教えていただきました。
もう1人の先生は、日本で最もメジャーなフランス刺しゅう(今ではヨーロッパ刺しゅうと呼ぶことが多いようです)の先生。この先生の教え方は、少しユニークでした。たくさんのステッチの名前を憶えて習得するのではなく、「この図案を刺しゅうするのは、このステッチ」「このステッチを横につなげていくと、違うステッチになって、こんな模様になる」と「描きたい図案」「創りたいもの」をスタート地点にして、そのための手法としてステッチを学ぶやり方でした。それぞれの先生に流儀があると思いますが、私は、このやり方が合っていて、ますます刺しゅうに夢中になりました。
刺しゅうの魅力を多くの人に・・・・・・願いをかなえるため、「趣味」から「ビジネス」に
教室を開催するに至った経緯を教えてください
良き先生との出会いがあって刺しゅうに夢中になり、娘のものを作っているうちに、ママ友さんから「私もこういうのを作りたい」とお声をかけていただくようになりました。当初は、幼稚園や学校にいっている子供たちを待っている間、公民館の片隅でおしゃべりしながら一緒に作っていたいのですが、そのうち、喫茶店をやっていらっしゃるお知り合いから場所を提供していただくようになりました。とはいえ、この段階では、本当に趣味の領域でした。レッスン料をいただくことになったのも「タダで教えていただくのも・・・・・」といったお声があり、気兼ねなく集まっていただけるために、という感じでしたね。
ところが、当初は、ほとんど顔見知りの方ばかりで集まっていたのが、日がたつにつれ、お知り合いを連れてこられる人が出てくるなど、思いのほか輪が広がっていったのです。それにつれ、ちょっとした不都合なども出てくるようになり、教室を借りてきちんと運営した方がいいのではないかと考え始めるようになりました。家族に相談したところ「これまでの趣味とは違い、ささやかではあるもののビジネスになる。大丈夫か」と大いに(笑)、不安がられました。もちろん、専業主婦だった私自身も、自信なんて、これっぽっちもありませんでした。でも、「もっと多くの人に刺しゅうの楽しさを、モノを作る時間の豊かさを知っていただき、それを共有したい」という願いの方が不安より勝りました。
この願いをかなえるには今のままでは限界があると思ったのです。ビジネススクールに通って集客の方法を学ぶなど準備をしているうちに、家族も応援してくれるようになり、都心で交通の便も良く、付近に学校も多く緑豊かな目白を選んで、教室を開くに至りました。以来、少しずつ集まってくださる方が増え、多いときには月に約100人、年間にすると1000人くらいの方が来られるようになり、ご縁のありがたさに感謝の思いでいっぱいです。
創りたい思いに寄り添って道筋を示す。生徒さんからたくさんの気づきをもらって・・・・
教室を運営される中で、工夫をしていらっしゃることはありますか?
お教えしている内容については、よく、「どんな刺しゅうを教えていらっしゃるのですか?」という質問を受けるのですが、ヨーロッパ刺しゅうをベースに、スモッキング刺繍、リボン刺繍、ビーズ刺繍、スタンプワーク刺繍や、それらを全て網羅したアート刺繍に至るまでさまざまな刺しゅうを学べるような形態にしています。つまり、「この分野の刺しゅうのステッチや手法をすべてできるようになる」がゴールではなく、それぞれの方が「創りたいもの」を完成できるようすることをゴールにして、その道筋をお伝えするというのが、私の教室の基本スタイル。これは、私に刺しゅうの楽しさや奥深さ、豊かさを教えてくださった先生の流儀を踏襲しています。
コースに分けて、ひとつの「お手本」を完成させることで、手法を学ぶというやり方も、もちろんあるし、それを望む方もいらっしゃるかと思います。でも、同じ「初心者」でも、「刺しゅうはやったことないけど、手芸はやってきた」という人と、「針や糸を扱うこと自体がほとんど初めて」という人とは、やっぱり違います。また、刺しゅうは、ほとんどの場合、一回では完成しないので、「次に来られるまでに、ここまでやってきてください」ということになるのですが、それぞれの方のライフスタイルの違いで日常の中で針を持てる時間も違ってきます。そうした「違い」を知るにつけ、お一人おひとりの「違い」に寄り添うことを一番に考えてやっていくのが、私らしいやり方ではないかと考えるようになりました。
それぞれの方のペースで、できれば長く続けていただきたいので、料金体系についても、チケット制を導入しました。ご自身のレベルでは難しいものを創りたいという方もいらっしゃいますが、そうした方には、「まず、こういったことからやってみましょう」と道筋を示してステップアップしていただけるよう、工夫をしています。
教室にはどんな生徒さんが通ってこらえるのですか?
自分のレベルに合わせて、自分の作りたいものを完成させられる、というスタイルをとっているおかげもあるのでしょうか、教室には、子育て中で「少し子どもの手が離れたから」という世代の方を中心に、4歳から80代の方まで、様々な年代の方に来ていただいています。夏休みや冬休みの自由課題のためなど、「親子教室」も開催しているのですが、お父様が来られるケースもありますし、男の子さんもいらっしゃいました。例えば、自分が思い描いている自由課題を創るために刺しゅうが使えるかも、という動機で来てくださったスポーツ好きの男子中学生の生徒さんがいたのですが、気に入っている小説の世界観を表現する素晴らしい作品が出来上がって、私自身がとても感激して、大いに刺激を受けました。
生徒さんから気づきをいただく、というのは、教室をやっている喜びのひとつですね。例えば、生徒さんの中で最高齢の方は、本当にステキなんです。すごく前向きで向上心がおありになるし、お洋服や小物にちょっと刺しゅうしたりして手を加えて自分らしさを出したり、シンプルな靴に手作りのコサージュを付けたり、そうしたものの色をネイルの色と揃えたり・・・・・・刺しゅうなどの「手しごと」によって「自分らしい個性」を表現することの楽しさ、豊かさを体現されている方で、私もこうなりたいと憧れています。
人と交流し共鳴しあうことで、手しごとの喜び、豊かさは無限に広がっていく
今後への思いと「てといと」の読者へのメッセージをお聞かせください。
コロナ禍は、当然のことながら、教室運営に大きな危機をもたらしました。ITには疎いのですが、現在は、オンラインレッスンを模索中です。同時に、こうした危機に見舞われたからこそ、改めて実感したこともたくさんあります。
まず、一人の作り手としての私にとって、刺しゅうは、自分の思いを表現するための媒体、手段であるということを感じています。だからこそ、テクニック面でも精進して進化していきたいと思っています。同時に、刺しゅうをはじめ、手しごとは、表現のための媒体、手段であると同時に、その作業自体にも大きな意義があるというのも改めて実感しました。先行きの見えない中で、一針、一針、布に糸を刺していくことに集中することで不安を忘れられますし、これからの自分自身のために、あるいは、大切な人のために、作業をしていくことで、未来への「祈り」の気持ちが沸いてくる。その時間の豊かさは、本当にかけがえのないものだと、こういう時期だからこそ、改めて思います。
さらに、人との交流が制限されている事態になって、つくづく、人との出会い、関係性の大切さも実感しました。ちょっと変な言い方になるかもしれませんが、刺しゅうと人間関係って共通点があると思うんです。刺しゅうを美しく仕上げるポイントは、「糸を交差させながらも、丁寧に扱い、絡めないこと」。人間関係も同じではないでしょうか。丁寧に人と接し、共鳴しあうことで、刺しゅうの、手しごとの楽しさ、大げさに言えば、人生の豊かさは無限に広がっていくのではないかと思います。
今の時代、刺しゅうや手芸の材料は100均ショップなどでも簡単に手に入りますし、ハウツーもインターネットで手軽に知ることができます。でも、「人に教えてもらう」「人と教えあう」ことで、刺しゅうをすること、手しごとをすることの楽しさ、喜びは何倍にも膨らんでいくと思うのです。そんなふれあいの「場」、そう、幼少の頃に出会った「街の手芸屋さん」のような「場」を、これからの時代にふさわしい形で作ることができればと夢見ています。「てといと」をご覧になっている読者の方にも、ぜひ、こうした手しごとをする時間の豊かさを体験していただきたいし、微力ながら、そのお手伝いができればと思います。
※2021年3月時点の内容になります。
プロフィール |
井上 貴代美さん (財)日本手工芸作家連合会認定 助教授。子育て中に刺しゅうの魅力に目覚め、2017年、目白に「K.Inoue刺繍教室」を開設。枠にとらわれず、それぞれの創作意欲に寄り添った教授方法が評判を呼び、年間1000人以上が通う。第40回創作手工芸展 入賞、第42回創作手工芸展 特別賞授賞など、アート刺しゅう作家としても活躍中。 (プロフィールは記事掲載時のもの) |
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K.inoue刺繍教室HP |
画像・テキスト資料出典 |
K.inoue刺繍教室HP |